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補足 逆さま


坐禅中 「思いに手を付けない」 ことについての補足です。



意識は感覚刺激を受けて、その反応として 「思考」 を生じます。

感覚刺激への反応として 「思考」 を生じることそれ自体は

良くも悪くもない、自然な、当たり前の反応です。

それは

「足の小指をタンスの角にぶつけたら痛覚が生じた」

ということと同レベルの話です。

足の小指をタンスにぶつければ、痛覚を生じるのは当然です。

ぶつかったことへの反応として痛覚を生じるのは、自然な、当たり前の現象です。

意識に 「思考」 が生じるのは、それと同じ現象なのです。

「思考」 それ自体はどんな思考であれ良くも悪くもありません。

ただの 「思考」 です。

その 「思考」 に手を付けさえしなければ、それは自然に生まれ、そして自然に消えてゆきます。

足の小指の痛みも、時が来れば自然に消えてしまっているのと同じことです。



但し、ここで注意が必要です。



生じた 「思考」 に対し、

「ああ、これ自体は良くも悪くもないただの ”思考” なんだ」

と考えること、観察することは、

立派に思考に 「手を付けている」 「後付けしている」 ことになります。



坐禅中は

ただ見えたままにしておく。

ただ聞こえたままにしておく。

ただ思いが生じたままにしておく。

それが 「手を付けない」 「後付けしない」 ということです。

この部分は気を付けておいてくださいね。




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☆ 平成25年 6月の坐禅会 ☆


「日曜坐禅会」

   6月2日 (日) 午後1時半より 


「古鏡の会坐禅会」
   
   6月11日 (火) 午後1時より 

   6月19日 (水) 午後1時より

   6月27日 (木) 午後1時より

   

  場所 : 栄宗寺坐禅堂

  参加費 : 無料


(初めて参加を希望される方は、事前に栄宗寺http://eisouji.web.fc2.com/までご連絡ください) 

10:44 | 坐禅 | edit | page top↑

逆さま


よく坐禅の時に、

「坐禅中、思いが出てきても、思いに手を付けないでください

ということをお願いすることがあります。



「思い」 は、見たもの・聞いたものに刺激されて自動的・習慣的に生じます。

これは 「手に物がぶつかったら、その手に何らかの感覚が生じる」 ということと同じ反応です。

意識に 「景色」 や 「音」 「香り」 という情報刺激が与えられ、その刺激への反応として 「思考」 が生じるのです。

そして

反応として生じた思いに対し、「今、私が考えた」「今、私が思った」 という後追い・後付けの思考が生じます。



この「今、私が考えた」「今、私が思った」という後付け、

そして

その思考に対する「私」の是非・善悪の判断が、「思考に手を付ける」 といわれる状態なのです。




いいでしょうか?

まず最初に「私」が存在していて、その「私」が景色や音について思ったり・考えたりしているのではありません。

逆です。

景色や音の情報刺激への反応として、最初の 「思考」 が生じ、その後で、

「今、私が考えた」 という次なる思考が生じているのです。

そして

後追い・後付けの 「私」 が、最初の思考に対し良し悪しの判断を下そうとしているのです。



最初の 「情報刺激への反応としての思考」 は、良くも悪くもありません。

ただの 「反応」 なのです。

手にモノがぶつかって感覚が生じた時、その 「感覚が生じたこと」 は自然なことであって、そのこと自体は良くも悪くもないものですよね?

その 「感覚を生じたこと」 に対し、是非・善悪の判断をする必要はありませんよね?

それと同じことです。

意識が景色や音の情報刺激を受けて、「思考」 という反応を生じることは自然なことであり、それ自体は良くも悪くもないことなのです。

その、良くも悪くもない純粋な反応としての思考に対し、後付けの 「私」 が勝手に良し悪しの判断を付け加えることで、事態を混乱させているだけなのです。



そんな自分自身に起こっている反応をよくよく見届けることで、

「私が見ている」 「私が考えている」 というような誤ったものの見方を終わらせることができるようになります。




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☆ 平成25年 6月の坐禅会 ☆


「日曜坐禅会」

   6月2日 (日) 午後1時半より 


「古鏡の会坐禅会」
   
   6月11日 (火) 午後1時より 

   6月19日 (水) 午後1時より

   6月27日 (木) 午後1時より

   

  場所 : 栄宗寺坐禅堂

  参加費 : 無料


(初めて参加を希望される方は、事前に栄宗寺http://eisouji.web.fc2.com/までご連絡ください) 

 
21:32 | 坐禅 | edit | page top↑

プリンと茶碗蒸し



以前、ある番組でこんなのを見ました。



ある家族に、プロの料理人が作った極上の茶碗蒸しを 「プリンです」 と言って食べてもらったところ

全員から 「不味い!」「美味しくなーい!」 と、酷評でした。



その後、

「実はこれ、プリンじゃなくて、茶碗蒸しでした」 と、種を明かしてもう一度食べてもらったところ

今度は全員から 「美味しいーーー!!」 と、絶賛されていました。



不思議ですよね。

「プリンです」 と言われた時も、「茶碗蒸しです」 と言われた時も

本人の舌は、同じ味を味わっているはずなのに、

一方の時はマズく感じ、もう一方の時は美味しく感じる。




この実験からわかることは

私たちは 「味そのもの」 を味わっているのではなく、無意識のうちに

「プリンだったらこういう味がするだろう」

「茶碗蒸しだったらこういう味がするはず」

と、イメージしながら、解釈しながら、ものの味を味わっている

ということです。

私たちは、ものを食べる時にさえ 「味そのもの」 ではなく、いつの間にか

解釈や、イメージ・観念に依存してしまっている

知らず知らずのうちに、

言葉が作り出すイメージ・観念・解釈に縛られている

ということでもあります。



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☆ 平成25年 5月の坐禅会 ☆


「日曜坐禅会」

   5月5日 (日) 午後1時半より  (終了しました)


「古鏡の会坐禅会」
   
   5月22日 (水) 午後1時より  (終了しました)

   5月29日 (水) 午後1時より

   5月30日 (木) 午後1時より

   

  場所 : 栄宗寺坐禅堂

  参加費 : 無料


(初めて参加を希望される方は、事前に栄宗寺http://eisouji.web.fc2.com/までご連絡ください) 

15:36 | 学び | edit | page top↑

仮説  十二支縁起


「十二支縁起」って聞いたことありますか?

仏教に関心がおありの方は 「ああ、あれね」 と、ピンと来られるのではないでしょうか。

と同時に、「なんか、いろいろ細かく分類してある割にはスッキリと判らない・・・・」 そんな感想もお持ちかも知れません。

伝説では、十二支縁起は 「釈尊が菩提樹の下で悟りを開かれたとき、思いつかれたもの」

と言われています。


これ、私、去白庵は

私たちがいかに 「言葉の世界」「概念」「観念」 にがんじがらめになっているかを、釈尊が説明されたものなのではないか、

という仮説を勝手に立てています。


つまり

この十二支縁起の連鎖を解くことができれば、私たち自身も 「言葉の世界」「概念」「観念」 のがんじがらめ状態から解放されることができる、ということです。

なぜそんなことをする必要があるのか?



普段、私たちは、

自分は自分の外側にある 「”もの”そのもの」 に欲望したり、苦しめられたりしている、と考えがちですが、

実際の私たちは

「もの」 に対して思い浮かべた自身の 「考え」「観念」「イメージ」 に、自分が悩まされたり、苦しめられたり、欲望したり、ということを繰り返しながら生活しています。

つまり、

自分の考え、自分の観念、自分のイメージに、自分自身が苦しめられている

それが普段の私たちの有り様です。

「それを解体しよう」 というのが釈尊の十二支縁起の試みなのではないか、というわけです。


十二支縁起の要素を具体的に言うと


(1)  無明 ― 無常・無我への無知 
(2)  行 ― 習慣化した解釈作用
(3)  識 ― 自意識 
(4)  名色 ― 心身という観念
(5)  六入 ― 心身を構成する6つの要素
(6)  触 ― 外界との接触
(7)  受 ― 感受作用
(8)  愛 ― 欲望・執着
(9)  取 ― 現状維持欲・自己保存欲
(10) 有 ― 存在すること
(11) 生 ― 生まれること
(12) 老死 ― 老いと死


ということになります。

何か難しそうなことを言っているようですが

それぞれの要素の具体的な内容は、実はそれほど重要ではありません。

なぜならこれは

普段、私たちが無自覚のうちに振り回されている自分自身の心の動きをいったん言語化し

次に 「いったん言語化した”心の働き”」 を、あえて再度解体して見せることで、

「自分自身の心の動きに無自覚に振り回されている状態」 をも同時に解体してしまおう

という試みだろうからです。


で、

「無明によって行があり、行によって識があり、……(中略)……、生によって老死がある」

つまり

(1)→(2)→(3)→・・・・・→(12)

と観察する方法を「流転の順観」といいます。

これが

「私たちが無自覚のうちに振り回されている自分自身の心の動きを”いったん言語化”する過程」

です。


そして

「老死は生によってある。生滅するとき老死滅す。生は有によってある。有滅するとき生滅す。……(中略)……行は無明によってある。無明滅するとき行滅す。」

つまり

(12)→(11)→(10)→・・・・・・→(1)

と観察する方法を「流転の逆観」といいます。

これが

「”いったん言語化した心の働き” を解体して見せることで、”自分自身の心の動きに無自覚に振り回されている状態” をも同時に解体してしまおうとする過程」

です。



十二支縁起とは 「言葉・観念の世界」 の解体のこと。

何故そういうことが言えるのかというと

「流転の逆観」では、「老死は生によってある。生滅するとき老死滅す。」とあり、

実際に釈尊もそれを実践され、「老死」を解決されたわけです。

ところが

釈尊が、ご自身の「老死」を解決し、「生」を解決されたからと言って

その瞬間に、釈尊の 「肉体としての作用」 がこの世から消えてなくなったわけではないですね。

逆観を用い、「老死」を解決し、「生」 を解決したあとも、釈尊の 「肉体としての作用」 は消滅することなく活動をつづけ、その後、実際には釈尊の肉体も 「老い」 そして 「死」 を迎えました。



「老死」 を解決したから釈尊の肉体は老いることもなく死ぬこともなかった、

釈尊は不老不死になった、

というわけではありません。



では、釈尊は逆観によって何を成し遂げられたのか、というと

「老死」 という 「観念への依存」 、「生」 という 「観念への依存」 を解消した

つまり

「”老死”という観念」「”生”という観念」 に縛られている状態が解消した

「言葉・観念の世界」 を 「現実」「事実」 と勘違いする生き方から解放された

ということになるのではないでしょうか。



釈尊の残された言葉にも、そのことを裏付けるようなものがあります。

==========

比丘たちよ、わたしは汝らのために、「この身という考え方」の成立に至る道と、「この身という考え方」の滅尽に至る道とを説こうと思う。

(相応部経 22・44)

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以上が去白庵の立てた十二支縁起に対する仮説です。

やっぱりちょっとややこしかったですか?



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☆ 平成25年 5月の坐禅会 ☆


「日曜坐禅会」

   5月5日 (日) 午後1時半より  (終了しました)


「古鏡の会坐禅会」
   
   5月22日 (水) 午後1時より  (終了しました)

   5月29日 (水) 午後1時より

   5月30日 (木) 午後1時より

   

  場所 : 栄宗寺坐禅堂

  参加費 : 無料


(初めて参加を希望される方は、事前に栄宗寺http://eisouji.web.fc2.com/までご連絡ください) 

10:43 | 仏教 | edit | page top↑

日々のつぶやき



「情報化」 とは 「固定化」 のことです。

「情報化する」 とは

あるがままの無常の有り様に逆らって、

流れてやまない事実の世界を 「観念」 「概念」 を使って固定化しようとする試みのことです。



何のために?



思考は、ただ、思考自身を守ろうとしているだけです。

思考は、個々の思考を守るために思考習慣を創り上げ

そんな思考習慣に首尾一貫性・正当性を持たせるために、

「それを思考する”私”」 という架空の存在をでっちあげるのです。



思考が目指しているのは、ただ、思考空間の安定です。



そして

時に思考は、思考空間の安定の方を生命の安定よりも優先しようとします。

思考空間の安定化に失敗すると、生命ごとそんな思考空間を自己破壊しようとすらしてしまいます。

また

思考は思考世界の辻褄・首尾一貫性を守るために

思考世界に常住不変の「実体」を設定しようとします。



外界に常住不変の実態を設定しようとすると 「もの」 となり

内側に常住不変の実態を設定しようとすると 「私」 となります。



「もの」 にも 「私」 にも実体はありません。

それは共に 「思考の産物」 だからです。



実体のないものを実体視しようとして

思考が思考を観察し始めたのです。



「考える」とは、ただ、思考が思考空間を守ろうとする営みのことです。



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☆ 平成25年 5月の坐禅会 ☆


「日曜坐禅会」

   5月5日 (日) 午後1時半より  (終了しました)


「古鏡の会坐禅会」
   
   5月22日 (水) 午後1時より  (終了しました)

   5月29日 (水) 午後1時より

   5月30日 (木) 午後1時より

   

  場所 : 栄宗寺坐禅堂

  参加費 : 無料


(初めて参加を希望される方は、事前に栄宗寺http://eisouji.web.fc2.com/までご連絡ください) 

15:13 | 日々のつぶやき | edit | page top↑

日々のつぶやき


「私」という思いの源にたどり着いた時、その思いは消え去ります。

その後に残るのは、私たちの努力や無努力を超えた状態です。

「最初から無我だった」

そのことを「信じる」のではありません。

信じる必要がなくなるまで、ただ、坐禅するのです。




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☆ 平成25年 5月の坐禅会 ☆


「日曜坐禅会」

   5月5日 (日) 午後1時半より  (終了しました)


「古鏡の会坐禅会」
   
   5月22日 (水) 午後1時より

   5月29日 (水) 午後1時より

   5月30日 (木) 午後1時より

   

  場所 : 栄宗寺坐禅堂

  参加費 : 無料


(初めて参加を希望される方は、事前に栄宗寺http://eisouji.web.fc2.com/までご連絡ください) 

10:22 | 坐禅 | edit | page top↑

言葉に囚われる



以前にも

「五蘊と二重解釈」

でお話ししましたが

私たちは 「二重解釈の世界」 を 「これが現実だ」 と勘違いして生活しています。

「まさかこれは”解釈”じゃないだろう。現実だろう。」

と考えがちなものもすべて解釈です。

「身体」しかり。「世界」しかり。

何であれ、「ある」とか、「ない」とかの思考の対象になるものは

すべて 「解釈されたもの」 つまり 「言葉の上での存在」 です。

「実体」 としては存在していません。

これは別段、私が勝手に独断で申し上げていることではありません。



2500年前のお釈迦様の言葉にも、こういうものがあります。

==========

言葉で表現されたものを真実と考えているだけの人々は、言葉で表現された世界の中に安住し、執着している。

彼らは言葉で表現されたものの実態を知らないから、死神にとりつかれてしまうのである。



言葉で表現されたものの本質を完全に知り、それを表現する主体(我)を考えない

このような人は、死神にとりつかれることが無く、それゆえ彼には、言葉による表現が過失に陥るようなことはない。

(相応部経 1・2・10)

==========

比丘たちよ、わたしは汝らのために、
「この身という考え方」の成立に至る道と、
「この身という考え方」の滅尽に至る道とを説こうと思う。

(相応部経 22・44)

==========



驚きですね。

お釈迦さまも、「身体」 というものを 「考え方=解釈の産物」 「言葉の上での存在」 と、見破っておられたということです。

「身体がある」と考えるから、身体の「誕生」と「死」があることになります。

(これが上記の 「死神にとりつかれる」 という言葉の内実ですね)

「身体」という概念が、まさに概念でしかなかった、ということを見届けることができるならば、

そこには誕生するものも、死ぬものも、実体としては存在しないことになります。

それゆえ 「死神にとりつかれることが無い」

つまり 「誕生」 と 「死」 からの解放があるのです。



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☆ 平成25年 5月の坐禅会 ☆


「日曜坐禅会」

   5月5日 (日) 午後1時半より  (終了しました)


「古鏡の会坐禅会」
   
   5月22日 (水) 午後1時より

   5月29日 (水) 午後1時より

   5月30日 (木) 午後1時より

   

  場所 : 栄宗寺坐禅堂

  参加費 : 無料


(初めて参加を希望される方は、事前に栄宗寺http://eisouji.web.fc2.com/までご連絡ください) 

18:41 | ありのままに | edit | page top↑

「無明(むみょう)」って何?


仏教では「無明(むみょう)」ということが言われます。

「無明の闇」とか、「無明の煩悩」とか、

有名な十二支縁起でも、私たちの「迷いの生活」のスタートは、まずもって「無明」から始まります。

実は

仏教徒の最終目的は「無明を晴らすこと」です。

なぜなら

仏教では「無明」こそが私たちを迷わせている根本のものだからです。



では「無明」とは何なのでしょう?

具体的にどのような状態が「無明」と呼ばれる状態なのでしょう?



「無明」とは

私たち自身、自らが「無我」であることに気付いていない状態

のことです。

私たちが自分自身で「無我を無我と見届けていない状態」

それが「無明」と言われる状態なのです。




伝統的な解説では、無明とは

「苦についての無知」

「苦の生起についての無知」

「苦の滅尽についての無知」

「苦の滅尽に至る道についての無知」


とされています。 (相応部経典 38、9)



となると、当然のことながら

では「苦」とは何だろう?

ということになりますよね?



これもまた経典に

「世の中にある種々様々な苦しみは、執着を縁として生じる。」 

(スッタニパータ 1050)

とあります。

また、釈尊と弟子との間に交わされる問答の定型句として

釈尊 「無常であるならば、それは苦であろうか、楽であろうか」

弟子 「大徳よ、苦であります」 


(相応部経典 22,155)

というやり取りも、よく見られます。

つまり総合すると

「苦」とは

「無常なるものへ執着したときに生じるもの」

と、言うことができます。

(「無常なるもの」とは「固定した実体が無いもの」という意味です)



そして

私たちの最も大きい「無常なるものへの執着」は

「自己への執着」

「自分という存在への執着」です。

これも仏典にある釈尊の言葉です。

「どの方向を心でさがし求めてみても

 それぞれの自己が一番いとしいのである。」


(ウダーナヴァルガ・第5章・18)

つまり

普段私たちは「”自分”というものが有る」「私は存在している」と、確かめもせず勝手に思い込み、

そんな「自分という存在」に最も執着しています。

しかし

その「自己」「自分」は「無常なるもの」ですから、本来実体がありません。


「常に正しく自覚して、”我は存在する”という誤った見解から出て、世間は空であると観察せよ」

(スッタニパータ 1119)

「”私は存在する”という迷わせる不当な思惟の根本をすべて抑止せよ」 

(スッタニパータ 916)


そしてそのことは、その気になれば自ら確かめることができます。




にも拘らず

ホントは存在しない「私」を立てて、その「私」に最大の執着を向け、

自ら苦しんでいる、それが私たちの有り様なのではないでしょうか?



「無明」を晴らすには、「苦」を解消するには

「無我を無我と見届ける」

その探究がどうしても欠かせないところなのです。



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☆ 平成25年 5月の坐禅会 ☆


「日曜坐禅会」

   5月5日 (日) 午後1時半より 


「古鏡の会坐禅会」
   
   5月22日 (水) 午後1時より

   5月29日 (水) 午後1時より

   5月30日 (木) 午後1時より

   

  場所 : 栄宗寺坐禅堂

  参加費 : 無料


(初めて参加を希望される方は、事前に栄宗寺http://eisouji.web.fc2.com/までご連絡ください) 

20:50 | 仏教 | edit | page top↑

あなたにしかできないこと


あなたの人生は、あなたにしか送ることができません。

あなたの人生を、私が生きることはできません。

あなたの人生は、余人をもって代わることはできません。



あなたの人生の成功や失敗は、あなたにしかできない成功や失敗です。

あなたの人生は、間違いなくあなた自身のオリジナルです。



今の、その、あなたの人生は、あなたにしか送ることができない人生だからです。



「自分にしかできないことをやってみたい。」

時々そんな言葉を耳にします。

でも

あなたはいますでに、

「あなたにしか生きることのできない人生」

つまり

「あなたにしかできないこと」

をやっているのです。


良いことも悪いことも含めて、あなたの人生に起こる出来事は、

全てあなただけに与えられたものです。



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☆ 平成25年 5月の坐禅会 ☆


「日曜坐禅会」

   5月5日 (日) 午後1時半より 


「古鏡の会坐禅会」
   
   5月22日 (水) 午後1時より

   5月29日 (水) 午後1時より

   5月30日 (木) 午後1時より

   

  場所 : 栄宗寺坐禅堂

  参加費 : 無料


(初めて参加を希望される方は、事前に栄宗寺http://eisouji.web.fc2.com/までご連絡ください) 

16:34 | 日々のつぶやき | edit | page top↑